節目と変化(開かれと閉ざされ)
先日は節分でしたね。
節分は、本来「季節の分かれ目」を
意味し、立春・立夏・立秋・立冬の
前日のことを指していたようです。
年に、4回もあったのですね。
しかし、現在では特に「立春の前日」
(2月3日頃)を指すことが、一般的だそうで。
また節分の起源は
中国から伝わった「厄払いの儀式」と
「日本古来の風習」が結びついたものだそうです。
今年は恵方巻き食べなかったなあ。。。
厄は遠くに
益や徳は近くに
くるといいなあって
いつも思ってます 笑
きっと思っているだけでは
ダメなんでしょうね、、、
季節や暦には、
目処になる「分けどころ」というものがありますよね。
個人的には
個人史の節目というのも
とても興味深いものです。
明らかに分かりやすいものだと、
入学、入社、引っ越し、卒業、
転職、結婚、出産、出逢い、別れ
があったり
そういったものとは違って
他者からは、分かりにくいけど重要な
「あの出来事」
「時期」
「出逢い」
が節目になっていた。
なんて事も、実はあるように思います。
後者は、ある程度時間が経過してみて、
初めて気づける事だったりもするかもしれません。
あの出来事から、自身は変化した。
変化せざる終えなかった。
という体験もあれば。
その「時期」や「出逢い」が自身を成長させてくれた。
何か人生にとって、大事なものを教えられた。
そんな経験もあるように思います。
それは時に起きてほしくない。
そんな、出来事も含まれるかもしれませんが。。
人生の小生である若造がこんな事を言うと
傲慢に聞こえるかもしれませんよね。
しかし、そういった経験は少なからず
誰しも通ってくるのではないか?
と、そんな気がしています。
何が言いたいかというと
「変化する事」
「変化させられる事」
そんな側面が、生きる醍醐味の一つ
なの「かも」しれないとなとか。
大袈裟ながら真剣に感じたり。
現段階での感想なので
「かも」といわせてください。
これは、人は「どこまでも成長」できる。
とか
いつまでも「新しい体験を求める」べき。
とか
少し強要されそうな、啓発的目線とかではなく。
誰しもが
「自然」と「本能的」に
そういうの(変化)
求めてしまうんじゃないのかな?
と感じる節がよくあるんです。
いやいや、私の本能も主張も保守的だよ。
といったご意見もあるかと思います。
話題にしといてなんですが、、、
実は僕も同感で
そう思う瞬間て、たくさんあります。
できれば、人は「自分を変えたくない」もので。
守られる家や、土地に、安心してずっと暮らしていたい。
愛するものを失いたくないですし。
誰だって、それが崩れる事はとても恐ろしいはず。
だから、そんな欲求があること、、、
「心から」知っているつもりです。
自身も含め
皆が「意識的」に
自分とは
「このような人間」
「本当の自分」
「変わらない自分」
などを当たり前に持とうとしたり
求めたりしてますよね。
それは捉え方を変えれば
これまでの経験を通して
また、これからの未来に対して
社会の中で「在りたい自分像」に
向かっているという事
または維持したいという事
なのかもしれません。
私見ですが、若い人たちの
社会に抱く理想にも
これまで社会で、葛藤や成功体験を重ね
地位を築いてきた先輩たちにも
このような印象を
感じる瞬間があったりします。
これは先ほども言っていたように
自身含め、誰にでもあるものだと思うので
決して悪口とか批評とかではないです。
そこらへんは、ご理解宜しくお願いします 笑
とりあえず
変化したいという本能
「開いていてる(自由的な)」
自分を守りたいという本能
「閉じている(保守的な)」
というものがあって
そこには、本来「個人差」と「程度」があるはずで。
しかし、どちらも何かしら「変化」していて。
周囲からすると、どっちかの人っぽく見えても。
(自分もよく極端にみられます。。。)
また自分自身が、こっち「側」だと極端に
思い込んだりする人もいるかもしれません。
しかし、人は誰もが本来
その両面性を持っているもの
そんなこと思っています。
開いているような、ある人も
「閉じている」世界や瞬間があるだろうし
閉じていそうな、あの人も
「開かれる」世界や瞬間がどこかにあって
閉じ方や、開き方に
それぞれのバラエティーが
あるんだろうなって。
そういうの少しでも、相手に対して想像できると
自分だけではない、他者の世界への広がりと
少しの温かさが、湧いてきたりして
その上で
僕はある説を持っているんです。。。
それが何かというと
人は誰しもが
「自身が変えられること」
(そのような体験)
を「望んでいるのではないか」説
そんなことを、疑っているんです。
と、端的言ってしまえば、そんなエッセイでした。
全然分かりにく話で、、、
うまくまとめられず、すみません。
ソフトなところで喩えれば
「旅行」もそういえそうだし
新しい「読書」や「音楽」「映画やドラマ」に
何かしらの「感動」や「出逢い」を求めているのも
それに、近しいと感じるのです。
人は「何か」しらの形で
「何か」に触発されたがっていて
それが、自然(外因)と「変化させられた」時
人はそれを、「心地よいとか」、「気持ちいい」とか
「ありがとう」とかなる気がするんです。
これも良いことばかりではないケースもあるだろうけれど、良いケースでお話させてください。
節目ネタから、小難しい話にすみません。
確かな思いはあるものの、文章化に少し迷子、、、
お話できる人は、
また改めて、ギャグを加えながら
気軽にトークしましょ 笑
中途半端でごめんなさい。
とりあえず、オチに行こうと思います。
僕が面白い(興味深い)と思うのは
どちらにせよ(両者含め)
「いつの間にか変化」
しているということです。
「させられてる」といっても
いいかもしれません。
しかも「本質的な変化」は、
自分では「コントロールできていない」
開いていようが、閉じていようが、、、
その人にとって
「重要な何か」の(微小でも)
体験や出逢いが
外側から訪れると
その人は、変わらざるえない。
そして、そのような経験は、
誰しも生きてれば
求めていても、求めていなくても
必ずどこかには、
訪れるような気がしています。
それは何度とないかもしれないけれど
何回かはくるのかもしれません。
変化すること
変化したいこと
変化させたくないこと
昔見たなんかのキャッチコピーにあったような
そういうの、なんだろうって
たまに考えたりします。
その時は分からなくても
振り返ってみた時に
見返すことができれば
それが深く理解できたりとか
するしかなかったりとか
そんな「物事」や「物語」って
あったりしそうなんです。
もし「それ」をみることができたら
それは、人生において
「大切」で大きな
「節目」になると思うんですよね。
まだ自分は見えていない節目が
多分たくさんあるのかな。
未熟すぎて想像もつきません 笑
ここまで書いてみて
自分がなぜ、普段から
「記憶が大切」だと思っていることにも
関係している気がしました。。。
これも個人的な感想だけど
自分で選択して「変われたこと」は
自信にはなるかもしれないけれど
それ以上の感動って
実際あまりなくて、、、
けれど自分を
「変えられた」経験は
いつ想起されようとも
そこに、なぜか感情の伴う
感動を抱いてしまいます。
それが温かい他者や、
大切な環境、時期であれば
そこには、自然と感謝の気持ちが。
魂とかいう言葉を使うと、怪しいですが 笑
「魂が震える」という表現をしていいなら。
(結構、僕の中でパワーワードです 笑)
体感を持って、そのような事を感じられる瞬間が
その時々に、訪れるような気がしてます。
そういうのって人生に頻繁にあるわけではないし
それらは、誰にとっても一生物なのじゃないかな。
これ以上は言語化できない。。。
そもそも、これはできていないな。。。
分からないけど
そんな感じなんです。
今日が雪予報で暇すぎて、、、
どうでもいい、誰も読みたくなさそうな、、、
そんなエッセイ的ブログを、
久しぶりに書いてしまいました
しかも終わってみて、この人は何を言ってたのか?
となることが想像できます。。。笑
連日雪予報
こんな日でも
来院してくれた
1人1人の患者さんと
ゆっくりと
たくさんお話できて
すごくいい日だった
明日から大雪で暇だったら、
ゆっくりできそうな患者さんには
お茶でも淹れますね 笑
最近は、るいぼすてぃーにハマってます
もし、そんなタイミングがあれば