11周年(凸凹の世界で)
いろいろ周年のときに
なんか書こうかなと考えていて
凸凹の世界で繋がる
この題目はなんで出てきたんだろう?
って我ながら不思議に思いました。
これまでの題目も、全部思いつきでした。
根本が感覚派で申し訳ないです 笑
とりあえず、今回で弾き語りのような
このスタイルのブログは、
一旦お開きとして、落ち着かせますね。
お付き合い頂いた方ありがとうございます。
暇な方は眺めてみてください。
文章の意味はわからないかもしれないですが、、、
なんかこの人いってるなあ。。。
という事だけは、伝わるかもしれません 笑
前回と前々回のテーマにした
循環とか、見えない力は、
日ごろの生活を客観視してみると、
周りにたくさん流れていそうですよね。
僕自身(ひびき整骨院)11年間の中に、
たくさんあったように思います。
凸凹(でこぼこ)はなんなのでしょう。
同じカテゴリーには、収まらない人々の
繊細な違いを、日常で感じているからかもしれません。
また、ちょっと違った角度からの切り口になりそうです。
整骨院をしていて、この視点が意外と、一番の面白みと豊さを僕にもたらしてくれているのかなと改めて感じたりしています。
ただこれは、多分最後までうまく言語化できないのです、、、
日ごろから乱雑勝手に、そんな事を感じているという事です。
ここでいう凸凹は、いろんな人たちの個性にあたる比喩表現だと思います。
個性は僕自身の主観的な解釈だけれど、すでにその人の中にあるものって感じで捉えています。
個性的って表現がよくあるけれど、個性ない人ってそもそもいないですよね。
だから才能とか能力というより、僕は個性を存在感だと思っている節があるんです。
国によっても育ちの環境によっても、そのノリに大きなジャンルの違いがあるかもしれないけれど、どこまで行ってもその人自身は個々によって違うものですよね。
地域のお隣さんから、同じような育ちの兄弟姉妹でも。
似たもの同士で集まるのも楽しいけれど、世界は広く。
だからこそ、僕自身は唯一無二の人がいないこの世界で普遍性というものに常に憧れがあります。
そこにいい答えをなぜか探したくなります。
というか僕たちを繋ぐ大切な領域。
他者と深く知りあってみてもそれを感じるし、たとえ浅い関係だろうともそう感じます。
我(人が自分というもの)は年齢によって、その在り方が変化していくものという印象を持っていますが、個性は才としてわかりやすい人も、他者から見えにくく理解されにくい人も、生まれた時から最後まで、その人に在るもののような気がしています。
てか絶対ありますよね。
絶対ってあんまし使いたくないのですが、、、
あえてよく使うんです 笑
とりあえず、ない人に出逢った事ないから。
カラダで考えてみてもわかりやすいかもです。
喩えむちゃくちゃですが。
こういう自分で在りたいとか、生き方とか、自分の所属とか看板とか、そういうのよりもっと手前にあるものです。
たまに世では、個性を伸ばそう的な取り組みが、無条件で肯定されてたりしてるのを見かけたりする事があります。
そういった環境は、能力を伸ばすため時に必要かもしれないけれど、本人がそう思うものではない気がしています。
意味はとても理解できるのだけれど、なんか社会に先行してそれを提示されちゃうと、ちょっと無茶な背伸びみたいで、個人的に違和感があるんです。
こんな保守の王子様みたいな発言よくありませんね。。。
けして尖りじゃありません 笑
イージーなスタイルで 笑
ただ、そういうのって目の前を生きていれば、自然と伸びるんじゃないかなって。
あるものだから。
大人になってみても、そんな視点で自身を知っては、掘っていく作業ができると、社会でもより本来の自分らしく振る舞えるようになるのかもしれません。
とか言って、完全に主観的な感想です。
というか12年目に向けた
自身(ひびき整骨院)への前ふりです 笑
とにもかくも
この世界にはデコの人もいれば、ボコの人もいます。
また、その逆もあるだろうと思います。
時にデコの人が、局面や接する人によっては、ボコになってるなんて事もあるはずです。
日頃からわかりやすく、どちらかに偏ってる人もいれば、皆が場面によって、違う凸凹を使い分けているかもしれませんよね。
もはや、共通するデコとボコの特徴と定義すらもここではわからないのですが 笑
どちらにせよ、誰にでもデコボコがあって、他者と同じ凸凹を持った同一人はこの世にいないって事です。
それぞれのバランスがあるだけで、そのどこかで周囲と繋がれたら、それは素敵な事だと思っています。
だから、人を無条件で傷つける人達に関わる事はできるだけ避けたいけれど、特定の社会の中で適応できない人たちとか、出る杭とか、そんな凸凹には可能であれば極力、偏見や差別を持ちたくないなあと心掛けています。
いつの間にか。。。
いったい自分は何の話をしているのでしょう。。。
11周年の振り返りは、当たり前の気持ちを小難しく話す回になろうとしてます。
この仕事をしていると日々
老若男女たくさんの人たちに出逢います。
今までも、たくさんの人と出逢ってきたし、きっとこれからも、たくさんの人と出逢っていくのだと思います。
その繋がり方や、接し方は
人によって絶妙に違いがあります。
そこには、正解も不正解の形もないと感じていて。
よく話す人もいれば、あまり話さない人もいて、だからといって前者の方が繋がりが強くて、後者の方が繋がっていないなんて事もないと思います。
その距離感は、多様的でまばらです。
長い付き合いの人もいれば、
その時期だけ来院される人もいます。
またイツメンの患者様から、
遠方から一回限りで来院してくれるかたもいます。
昨日も石川県から、足相談に患者様が来院してくれました。
中々通院できる距離ではないけれど、嬉しかったです。
僕はこの仕事を通して、様々な患者さん達と出会えています。
お世話になるスタッフさん達とも。
その全ての距離感が好きです。
もちろん患者さん達の依頼に、より良く応える事への努力は日々心がけてます。
てかそれがなかったらただの語り家です 笑
ただ
そんな日常を通しては、僕自身もかなり凸凹である事に気づかせてもらってるようです。
思に。
どちらも伸ばしていきたいなあ。
いい意味の方で捉えていいなら
そういうの
豊さとか
受容力
優しさ
っていう気がしてて
広がれば
器なのかなとか
はい
ここまでにします。
終始よくわからない話になりました、、、
この告白を持って
私めは12年目に向けて歩を進めていきたと思います。
これまでも、これからも、みなさまに感謝感謝です。
子供心を持って、更なる大人目指します 笑
皆様これからも宜しくお願いしますね。