自分なりの表現(久々の再会)
先日、久しぶりに作業したくて仕事後カフェに行きました。
そこで大学院時代に、数回だけゼミで一緒になった子と再会したんです。
なんと、その子が本を出す事になったと、、、
本!どういう事?
すごいなあ!ってなりました。
その子は現役で小学校の先生をしながら、言葉にしきれない、やりがいみたいな事をほっこりするような漫画にしながら伝えているようです。
https://www.instagram.com/amitaro_t/
いろんなメッセージ性があっていい感じ。
結構歳下の子だけど、いろんな制限される立場の中で自分なりの表現をしているの素敵だなあってなりました 拝
そういえば、院時代から教育関係でカンボジアに行ったりして、子供達が好きそうだったなあ。
とても未熟な自分は学校の先生や、組織に属する事ができないような人間ですが、、、
それでも、いろんな人達とどこかで繋がって、この社会で一緒に生きています。
どこまで表を歩いても、隙間にいっても。
だからこそ、自分も自分にしかできない今の仕事にやりがいを持てるのかもしれません。
語弊を招くかもしれないけど、本当はどんな仕事でもいいんだと思います。
そんな事言っといて、そうはなれなかったのでいまがあるのかもしれませんが。。
今の仕事や、出会える患者さん達に本当に感謝しています。
巷では、たまにいろんな立場からの、社会批判とか職業批判とか、ポジショントークとかだけで終わってしまう不毛な意見や論争があったりします。
あの感じは、ほんとにどうでもいいんです。
壁にぶち当たり、道を切り開くためのポジティブを目指したネガティブ批判や、時に必要な愚痴はたくさんあっていいと思うのですけど。
みんな生きてるだけで、いつの間にか壁に囲まれては、いつでもフルボッコ状態になりえます 笑
やれるか?
まだやれます!
個人的には
いつもそんな感じです 笑
キーワードは、ワクワクと謙虚さなのかな
冗談はさておきます、、
いろんな立場の人が、いろんな目の前に向き合っている姿勢を教えてもらえると胸が打たれます。
優しいし、強いなあって。
葛藤を飲み込んでは、大切だと思える事を前に向けて広げていけるの。
大人だなあって。
自分は、自分のことばっかりじゃないかと襟を正したくなりました。
子どもだなあって。
しかし、それも、それぞれの人にとって大切な事のはずですよね。
私といえば、その時に作業の傍ら、小難しい本を読んでは、理屈っぽい事考えたりしてました。
共感能力とか、言語の意味についてとか
知っている人もいるかもですが、いつも言葉より身体的なものが大切だと考えたり、そんな事を偉そうに話したりしています。
カラダやトレーニングを仕事にしてるから、より一層にそういった視点に重きを感じているのかもしれません。
しかし言葉は人にとって、明らか自然に兼ね備えられた大切な能力だとも思っています。
言葉がないと伝わらない事や、伝えられない事もあるはずです。
人は行動だけ見れば、その人の本質がわかるというの、僕は違うと思います。
その捉え方も、一側面では正しさがあると感じますが、、、
だって、そのように動いてるからです 笑
けどやっぱ、違うと思います。
違うというか、そんな単純でまとめちゃだめだなあって感想かなあ。
逆に単純じゃないから行動に本質の情報が詰まってるんですよ!となりそうだけれど 笑
最近、学生のスタッフさんと、いろんな心理学者の歴史と学派の話しをしてました。
そこらへんを勉強中のようです。
そんな話題を話していた時に、個人的に改めてそんなどっちでもいいような事を考えてしまいました(ニワカレベルです)
そんな刺激から改めて調べては、少し勉強してみたくなる機会をもらえるのも楽しいものです。
なんでもすぐ忘れるので 笑
言語についても面白いなあと思ったりして
例えば日本では、マグロと鰹に違いを持っていますよね?
しかし、アメリカではこれはツナの一括りだそうです。
文化によって、目の前の対象についての捉え方に違いがある。
これは、それぞれの言語を話す人たちや文化が、その差や違いを区別し、どこらへんを無視するかを、いつの間にか選択しているからです。
で?
って感じですよね 笑
違いがあるのあたり前でしょ、って声聞こえそうだし、興味なければどうでもいい話ですよね。
けれど、そういったら、知的好奇心はおしまいなので。。。
目の前の相手と、知らない世界への想像力が消失してしまいます。
違いを想像すると、色の区分とか、はたまた国、地域によってのオノマトペとか、色々と考えられそうです。
少し脱線するけれど、文化レベルではなく、個人の内側にもそんな違いがあると想像した事がある人は多いと思います。
例えば、目の前に赤いリンゴがあった時
自分が思っている赤と、他人が思っている赤は一緒じゃないかもしれない?
もしかしたら、私の赤は、その人にとっては青かもしれない。
なんて。
同じものを見ているはずなのに、自分が見ている世界と、他人がみている世界は本当は違うかもしれない。
そんな。
中学生くらいの時とかめっちゃ考えてそうです 笑
これは、古代から頭のいい人たちが考てきているテーマだと思います。
そもそも、曖昧だったり微妙な範囲なんかの捉え方や認識の違いも、面白いですよね。
ここまでの話を、僕なりに頭を使わずに落とすと、、、
使えよという話ですが、、、
正確には使えずに、また軽薄にしかまとめられません。 笑
またこういっては身も蓋もないのですが、、、
人はそもそも違うのが、当たり前だなあって感じてしまいますし。
カラダでいえば構造はみんなほぼ同じだけど、素材や機能はまったく違います。
人種や民族で近しい区分けがあっても、やっぱり一人一人違います。
個人も、集団も、どんな文化圏でも。
色の捉え方の例でいけば、その人の認識している本当の色の差異は、どんな検査をしても最終的には調べようがないはずです。
そういえるだろうという事は、外側からならいえるかもしれないけれど。
心やその人の気持ちも、そういうふうにいえるかもしれません。
分かるようで、わからない 笑
みんな同じものを見てるかもしれないし、全く違うものを見ているかもしれません。
だから大切な事は、その赤を赤として共有したり、共感できるって事なのかなあとか。
そこはなんか、とても大切なところだと感じています。
最高な歓喜や楽しさ、時に悲しさなんかも。
なんて。
どうでもいい話でありました。
(最近、患者さんにお薦めをお借りしました)
最後に
昔話研究、小澤先生のこの本よかったです。
人が生きるための普遍的なヒントや、子育てをする人たちにもいいヒントがたくさん解説されていました。
みんなが知っているお話多いと思います。
また本質的なところを読み解いていくと、そんな解釈があったんだなあと深みがまして面白いです。
患者さんのお薦めは3年寝たろうでした💤
3年寝たろうの私は
本出版の後輩さんの爪の垢でも頂いて
来年はどう動いていこうか考えようと思います。